水
03
3月
2010
営業会議などの場面で、自分が発表したことに対して「それは、明らかに○○(自分の名前)の判断ミスだな」と、出席していた上司に言われた経験は無いでしょうか?
あるいは、自分が上司または先輩の立場で、部下や後輩に対してそんな言葉を発したことはありませんか?
失敗事例は、そもそも発表するのにとてもエネルギーがいる行為です。きっかけはどうあれ、誰の眼にも不成功と考えられる事象を、当事者が発表するのであれば、失敗事象を他の人や組織の参考に資する為といった明確な目的を持って客観的に語る姿勢に対して、まず見る側として受容的な態度を忘れてはならないと思います。
そうした点からみても、冒頭のような「それは(どう見ても)おまえの判断ミスだろう」的な発言や態度には、既に事が起こってしまった今の時点から眺める、ちょっとした評論家的な立場のにおいがぬぐえません。こうした態度は失敗の共有つまり失敗の真の有効利用からは遠ざかる危険性をはらんでいます。
「判断ミス」というのは一種の原因の特定であり、それ自身極めてシンプルなことのように見えますが、本当はどのような背景のもとで「判断ミス」が生じたかについて、事象そのものの流れに沿って丁寧に見て行かないと役に立つ議論は得られません。
再び前回のブログで出した単純なグラフを用いてこれを考えます。
既に事態が終了して結果が明らかになった現在の時間T2の時点において、Aというあるべき水準からBという現実(結果)を見下したうえで、「そもそもT1の時点でお前は△△を良く見ていなかった」とか「▲▲に対する検討を欠いていた」という断罪を下すのが、ここで言う評論家的見方にあたります。
達成基準からのズレは、組織にとっても個人にとっても何らかの損害をもたらすわけですから、この観点で評価する視点は必須です。しかし、トヨタのリコールの例を見てもわかるように、問題はそれほど簡単ではない場合が多く、「リコール措置のタイミングに関する判断ミスであった」のように単一要因では片付けられないものばかりでしょう。
したがって、「断罪」ではなく教訓として何をどう抽出するかに力点が置かれなくてはなりません。その意味では自分が図のA線上に立ってBを眺める以外に、Bの線上に立ち、当事者目線でT1からT2までを記述してみる。すると何がT1で見えていてどう解釈したのか、また来るべきT2をどう予測し描いたのかを追いかけることができるはずです。
そういう観点からは、失敗が起こる原因を時系列で追うヒューマンエラーの研究から得られた「人間の情報処理過程とエラー分類」というアプローチは興味深いものがあります。(芳賀繁 著:「失敗のメカニズム」日本出版サービス2000年刊)
このアプローチは人間(組織でも同様)を情報処理装置に例えるかたちで、情報処理の段階を「入力過程」「媒介過程」「出力過程」の3つに分けることにより、この3つの段階のどこで失敗が起きたかをもとにヒューマンエラーを3つに分類しているところに特徴がります。
著者も言うように「この分類の優れた点は、表面上のエラー形態ではなく、人間内部の情報処理過程に着目していることであり、そこから対策のおおざっぱな基本が導かれる」ところにあるでしょう。その意味では畑村氏の列挙していた10の失敗要因よりもMECE的なアプローチと言えるかもしれません。
ここまでで2つの事を述べました。
①あるべき姿(当初の計画:直線A)の側から事実としてのActual Performance(直線B)を見て、その乖離と原因を探ろうとする努力は否定すべきものではありませんが、当事者の立場(目線)に立って考えることも、本質を理解する上では大切であること。つまり異なる視点を持つことの必要性。
②まずい結果が起きるには、それを行った主体に一連の情報処理のようなプロセスが根底にあることを想定して、時系列的に考える。すなわち当事者の認知・確認はどうであったか、判断・決定はどうされたのか、どんな操作・動作を行ったのかを、丁寧に見て行くことが、原因を理解し対策を打つ上で重要であること。
特に②のようなアプローチ法はある種のセオリーのような使い方ができるので便利なものです。しかし、セオリーは道具として有用な場合がおおいものの、そこが解答を与えてくれるような錯覚はしないほうが良いでしょう。
そのことを石井淳蔵氏は「ビジネス・インサイト」(岩波新書2009年刊)のなかで、こう述べています。
「セオリーは現実を把握する上で、あるいは見通しをつける上で手がかりにはなるが、それが直接答えを導くわけではない。その意味で『セオリーを知った後にどうするのか』が大事であって、セオリーを現実に使いこなす準備が必要になる。セオリーを現実に使いこなすためには、セオリーもまた現実の一断面、意味ある全体を見通すための一つの手がかりでしかないことを知ることである。」
できるだけ矛盾なく視野狭窄に陥らないで問題を解く姿勢を保つのにセオリーは助けを出してくれるはずですが、現実はつねに一枚上手と思って謙虚に臨まなくてはなりません。
さて、このように考えてくると、失敗事例から「本気で何かを学ぼう」という態度で臨むのなら、事例発表自体のありかたにメスを入れることが必要だと思います。事例を多様な視点で、時系列に沿って丁寧に見て行くと、すべてが標準からの(下方)乖離ばかりではないことがわかります。結果としては失敗につながった事例の一連のプロセスの判断や行動のなかには、Best
Practiceに取り上げても良いような個々の判断・行動があるかもしれないのです。ミクロの視点でみると、失敗か成功かも視点によって異なる事さえあるわけです。
当たり前のことですが、どんな戦略的な対応が良いのかさえ、状況によって大きく依存してきます。そして、「状況によって」と言う時の状況というのがはっきりと系統的に整理されて分類・呈示されていない以上、定石的な戦略と言うセオリーも、残念ながらそれがどこまで当てはまるかに関して言及できない相対的なパワーしか持たないものになります。
そんななかで、あえて主催者が「失敗例」にこだわって、その因果を究める作業は、困難さがおおいだけでなく、実質的意義も豊富とは思えません。
そうすると、成功事例の共有化でも既に述べたように、「成功」「失敗」という言葉で最初に色眼鏡をかけるよりも、研究すべき「学習材料としての豊かさを持った実例」として発表者が呈示するほうが、よほど実のある検討ができるのではないかと考えます。
現実の姿を丁寧に、しかも対象に密着しながら、時には対象から離れて俯瞰する視点を、当事者も参加者も学ぶという事例研究の意義は大きいと考えます。
少しの成功的要素と多くの失敗的要素がまじりあって交錯する現実を、時間とともに生のまま捉えることが、「対象に棲み込む」ということにつながり、そこから学習者は何らかのインサイトを得ることが初めてできるのではないでしょうか。
その場合には、安易に社会や経済といったマクロの要因で整理説明して納得するような態度は排除されなくてはなりません。同時に、個人・当事者の個性や強い思いといった属人的要因に落とし込む危険も避けなくてはなりません。そのうえで、現実を多様な要素の相互関係をベースに解きほぐしてゆくブレインワークが、求められているのでしょう。
考えてみると、「失敗」に関するこれまでの先行研究、業績の多くは、事故やエラー、敗戦など、白黒がはっきりしたもののうち黒であった事例を対象にして研究されてきました。そこでの因果の研究スタイルから学べるものも多くあります。しかし営業・マーケティングのように、必ずしも勝敗が(戦争や大事故ほど)明白ではない事例こそ、今の時代に於いてはケーススタディーとして、犯人捜しとは異なる視点でなされる価値の大きい仕事であると考えます。
「うっかり」などの単純ミスやエラーは、その背後にあるエラーを引き起こしやすい隠れた要因を明らかにするためにも「ヒヤリハット」で集積しRetrospectiveに分析することができます。
一方で、白黒のはっきりしない複雑な事象に関しては、「失敗」「成功」の単純区別をせずに、ケースとして学ぶことを根付かせたいものです。その方法論をもっと詰めて学んでゆくことの価値は大きいでしょう。
適切な例えになるかどうか判りませんが、臨床医学で言えば、疾病の治療方法を学ぶ際に、「典型的な著効例」や「治療失敗例」から学べることは実はそれほど多くないという事に似ているでしょう。実際の患者さんは他の合併症を持っていたりして、治療への反応も一進一退を繰り返すケースが多いもので、典型例は逆に探すのが困難だったりします。このように、実際に眼の前にいる豊饒な可能性としての患者さんから、臨床医は多くを学んで次の患者さんへ向かうことができるはずです。
よくIT系のナレッジマネジメントを業務とするベンダーが、「成功例や失敗例をこのシステムに蓄積することで、社内の知の集積ができ、やがて...」のように説明しシステムを売り込むことがありますが、頭に汗をかかずに、ここまで考えたような知の構築が不可能なことは今や自明になっています。
また医薬品マーケティングのセミナーで、しばしば参加者から出るリクエストに「失敗例、成功例」の実例を紹介して欲しい、というものがあります。多くの事例を擬似体験することの意義は大きいもので、そこにケーススタディーを扱う理由も存在するわけですが、願わくば、こうした参加者のリクエストが期待しているものが、「ヒヤリハット集」で有られるような、「こうしたらうまく行く」「こうしたら失敗する」レベルの原因と結果を一対に並べられる、安定した「必然の公式」の希求でないことを願っています。
長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。